賢者の面影

ニュースによれば、元日の大地震で起きた津波は、当初の気象庁発表のものより実際はもっと高かった所もあったらしい。

あの日、私は膝痛で高台に避難するのを諦めて、海抜5m ほどの自宅にいた。

この辺りは津波が大したことなかったから命拾いしたが、次はどうだか分かったものではない。

この大地震で動かなかった断層が、今後動く可能性もあるというから。

 

 

以前、ここで大地震を経験した時には、村の婆さん3人が高台の避難所に行かず、海沿いの家の前に並んで座り込んでいた。

私は早く避難するように促したのだが、「ここで死ぬ〜!」と3人が泣き顔でゴネていた。

その3人の婆さんたちは皆同じ病を抱えていた。

体が震える上にひどい幻覚が見えてしまう病気で家族からも疎まれ、内二人はネグレクト状態だった。

高台に歩いて登って行くのも、しんどかったのだと思う。

身体が思うようにならない婆さんたちに肩を貸すなり、背負うなりして、避難所まで連れて行けそうな体が丈夫な男たちは皆、こともあろうに津波見物に出かけていて何の役にも立たなかった。

 

 

今年の元日のあの地震で、あの日のことを思い出し、あの3人の婆さんたちの気持ちに近い自分がいるのに気づいた。

私の抱える病気なんて単なる膝痛やら腱鞘炎やら大したことはないが、老いから来る身体の不調というのは、様々な点から生存の危機を感じさせ「長く生きる」事に不安と嫌悪感を抱かせるから。

それと、自分の死について、あまり迷惑かけたくないというのもある。

津波にのまれて海に帰り自然に還る...

不謹慎かもしれないが、私には理想だ。

墓もいらないし葬送の手間も取らせない。

(お墓、無いわけじゃないが、そこに入りたくない。キモいし。)

自死には抵抗あるし、他殺ではないから恨みも起きないし、古来から人類は天災に巻き込まれて死んできたのだから。

ぱっと俗世から姿を消してしまって遺体すら知れず、生きているのやら死んでいるのやら分からない...中国の古典文学にあるようなこの世からの去り様は、若い頃からの私の憧れでもある。

 

 

あの3人の婆さんの内で一番長く症状が酷かった1人は、他に障がいもあったのか日頃から日常会話のやりとりさえも上手くいかなかった。

そのせいで村人から「あいつはバカだ。」と人間扱いされていなかった。

しかし、私はあの婆さんこそ、この村で一番人間らしい部分を持った人だったという事を知っている。

おそらく脳に障がいがあったのだろうと思われるが、にもかかわらず、暴力をふるわれそうになっている他人を目の前にして何とか方便を用いて救おうとした場面に、かつて私は何度か遭遇したから。

 

 

「あいつはバカだ。」と蔑んでいた男どもにも女どもにも、あの地震の時、村の障がい者や子供たちを避難させようとした者は一人としていなかった。

目の前で何十年顔見知りの年寄が倒れていても、見て見ぬふりを決め込むこの村の村人。

他人の事は助けたくないが自分の事は助けて欲しい...そういう姿勢がこの村の村人の常。

そんな我利我利亡者に、賢者か愚者かの判断なんぞ出来るものか。

 

あの賢者の婆さんだけだ。

この村に越してきて出会って良かったと私が思えるのは。