今日の朝日朝刊の社会面「増幅の先に・・・ 「被災地行くな」善意だったが」の記事だが、どこか軽さを感じ、何が言いたいのか分からなかった。
というか、被災地を取材したことのない人か被災経験のない人の書いた文章に思えた。
元日の能登半島地震から数ヶ月以上経った時点ではともかく、半島の先が震源で被害もその辺りが酷かったこの地震では、当初、被災の酷かった場所まで繋がる道路も崩壊箇所が多く、地元民の移動だけで渋滞が起きていたから、県が一般ボランティアの制限をしたのは当然だったのではないか。
(別に、県知事を擁護するつもりはないが。私の聞いている範囲ではそのようだ。)
そして、大地震の被災経験のある人なら、善意から知人を助けに行こうとして、いざ車で出かけてはみたものの、道路の陥没しているところに危うくはまってしまいそうになり、それで道路を遮断して自衛隊が現地にいち早く入るのを邪魔しかねないことを招きそうになったり...
そんな自慢もできない経験から、どの時点で何が優先されるべきなのかと、まずは想定してみるという知恵も浮かんだはずだ。
今回の大地震では、自衛隊でさえ、なかなか現地に到達できないケースがあったと報道されていたから、経験も土地勘も無い人が無事に被災地に到着してボランティア活動できたかどうかは大いに疑問である。
特に、日本海側の冬は、暖かい地方の冬とは違う。
そこで自己完結してボランティア活動出来る人でなければ、難しかっただろう。
昔うちが被災した時、うちの爺の自称「友達」がボランティアをすると言って勝手にやって来たが、被災者側で毎日の食事をその人の分まで作るだけではなく、住む場所も確保して掃除してやり、おまけに毎日毎晩深夜1時ごろまで被災したうちで酒盛りをするという、とんでもはっぷんなボランティアであった。
ハッキリ言ってボランティアからはほど遠いあり様。
それでも「地震で動揺しているうちの爺の気晴らしにはなるか」と私も考えてムカつくのをこらえながら...そんな日を1週間以上過ごした。
しかし、それで調子づかせてしまったのか、そのうちの爺の自称「友達」は、もっと酷い被災地の見学に連れて行けと言い出し、最後には、被災したうちにたかってくるという始末(元々うちの爺に対してたかりグセのあった人。だから私は「そんなのは友達ではない」と爺に忠告していたのだが)。
私の辛抱も限界に来て、追い返すことにした。
以来、そのうちの爺の自称「友達」にうちの敷居をまたがせないことにしている。
そもそもボランティアを褒められようと思ってるならするな、と思う。
阪神・淡路大震災から日本でも広く認知されるようになったボランティア活動だが、いまだにどこかはきちがえている人が多いのも事実。
最初から営利目的のものを「ボランティア」と平気で言っている人もいたりするぐらいだ。
無知でも技術がなくても善意なら許されて褒められると思うなら大間違いだ。
そういう人は、あのうちの爺の自称「友達」のボランティアみたいになってしまうのではなかろうか。
今回の地震ではボランティアの現地入りへの中傷があったと、この朝日の記事には掲載されていたが、老いも若きもスマホを持つのが当たり前の社会では、大地震のボランティア如何にかかわらず、ネットの使い方に関わる負の側面が大きく表に出ているのが現状。
SNSの表示回数に応じて収益が上がるシステムは、より人を過激な方向へと導きやすいし、そこを見越して悪用する輩も今後増えてくるだろう。
それと、災害ボランティアのあり方や、ボランティアとSNSに対する行政の関わり方とは、第一義的には、まず別問題である。
SNSのあり方、ボランティアのあり方、それらとの行政との関わり方...この3つの論点がゴチャゴチャになっていたのは、ジャーナリズムとして如何なものか、と非常に疑問に感じたのであった。
3つの関係性如何は、今後の災害対策に必要不可欠ではあるものの、この3つを論じるには、まず、3つの問題をそれぞれある程度明らかにして行くところから始めないと。
情報としても、実際に現地取材した経験としても、薄さと軽さしか感じられなかったのは残念だった。
末筆ながら、私はボランティア一般を否定するつもりは無く、むしろ逆で、私自身ボランティア経験はボランティア活動が今ほど認知される前から何度もある。
あるからこそ、書き残しておこうと思った次第。
褒められるのを、営利を目的にするのが、ボランティアでは全く無い。