「夜と霧」の読後感の謎

今週のお題「名作」

 

思い浮かべるのは、ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」。

客観的に考えれば、収容所での記録であり重く暗いテーマなはずなのに、読むと何故か癒やしを感じてしまう不思議な本だ。

それで、この作者が私の脳裏に残り続けるようになった。

 

4月21日朝5時のEテレ「こころの時代」は、このフランクルがテーマだった。

「夜と霧」の不思議な読後感の元が何なのか知りたくて見たのだが、番組の冒頭は、1988年3月10日ウィーンにおけるナチス侵攻50年追悼集会での彼の演説のワンシーン...

「私の父はテレージエンシュタット収容所で亡くなりました。

私の妻はアウシュヴィッツ強制収容所で亡くなりました。

私の母はアウシュヴィッツガス室で殺されました。

私の最初の妻はベルゲン・ベルゼン収容所で命を落としました。

それでも私からひと言も憎しみの言葉が発せられることはないでしょう。」

 

彼自身も37歳でナチに捕えられアウシュヴィッツを含む4つの収容所で2年半過ごしたのだが、それでもなお、「私からひと言も憎しみの言葉が発せられることはないでしょう」と言い切れるのは本当なのか、と疑いたくもなる。

しかし、この「夜と霧」を読めば、通常なら憎しみと恨みつらみに苛まれるはずの経験を持ちながらも、それに飲み込まれてしまわない心情というものが、あり得るのではないか、と、人間にある種の希望を持たされてしまう。

 

フランクルの著書に以下のタイトルのものがあるらしいが、これが彼の精神を貫いている信念であろう。

"trotzdem ja zum leben sagen" 「それでも人生にイエスと言う」

(私ならこう訳すだろう。「それでも人生を肯定する」と。)

※いや、これが「夜と霧」の原著のタイトル或いはサブタイトルなのか?

「夜と霧」を原著で読むのは、私の目標でもあるから、なんとか年内に謎が解けてくれるように頑張ろう!

 

どんな状況下に置かれても人生を肯定出来る事が大切、と考えていた彼は、1926年に初めて"Logotherapie" 「ロゴセラピー」という語を使う。

"Logo"とは「意味」を表す。

あらゆる人生には意味があって、人はその生きる意味の欠如が原因で病気になる可能性があることに気づいていた彼は「ロゴセラピー」という領域を切り開こうとした。

それには彼が幼い頃に生きる意味の危機を経験したのが背景にあった。

「人生の無常さが人生の意味を無に帰してしまうのではないか?」

 

フランクルフロイトアドラーに師事して心理について研究していたが、フロイトアドラーとは違った考えを持つに至った。

フロイトは、人間の行動は快楽への欲求に基づくと考え、アドラーは、人間の行動を決めるのは劣等感や優越への欲求であると考え、いずれも心と体の二次元の中で考察した。

しかし、フランクルはそうした二次元的世界ではなく、その上にそれらを越える精神次元があり、自分を乗り越える力は心と体の二次元にはなく、精神次元にこそあり、それが自分を引き上げる力なのだと考えた。

「何のために生きるのか?」

「何のためにここにいるのか?」

打消でも紛らわしでも避けるのでもなく、この疑問に立ち向かうのが成熟の証、勇気の証だと、彼は考えていたようだ。

精神科医として働くようになったフランクルは、患者の傷の背景や精神的生き方への態度を含めて向かい合い診察すべきであり、患者自身の自己治癒力で生き方を健全なものにして行けるようにするのが医師の役割だとする。

 

そんな中、ナチのユダヤ人迫害の影がしのびよる。

ユダヤ人医師がユダヤ人以外を診るのを禁止するという時代になり、フランクルユダヤ人を診る医師として病院で働くようになる。

ひと月に10人もの自殺未遂者が病院に運び込まれ、その患者の命を救っても、その後その患者は収容所に送られるだけ。

救っても恨まれる、そういう状況に。

それでも彼はこう考えた。

「どんな状況に置いても人生には意味がある。だから自分から命を絶とうとはしないでほしい。」と。

 

民族差別や人種差別が激しかった時代に、彼はそういう属性で人間を分類しようとはしなかった。

彼にとっては、精神次元からの意味の呼びかけに応えられる人であるかどうか、が大事だったようだ。

状況状況において自分は今そこで何に対して責任を持っているかを考える。

誰にでもある「意味のあることをしたい」という「意味への意志」が満たされた時に人間は強い充実感を持てるのだと。

 

 

この番組、「ヴィクトール・E・フランクル それでも人生には意味がある」は全6回シリーズで、次回の第2回目は、今月の5月19日(日)午前5時から。

「生きていることに、もうなんにも期待が持てない」こんな言葉に対していったいどう応えたらいいのか、という問いに彼の答えはどうなのかが次回のテーマだそうだ。

 

 

今、イスラエル問題が日々ニュースに出てくるが、イスラエルのネタニヤフ首相はかつて尊敬する兄をハマスに殺されているそうだ。

だから、彼の心のなかには復讐心が根強くあるのだろうし、そんな人は彼以外のイスラエル人に多いのかもしれない。

私も自分の愛する人が殺されでもしたら復讐の鬼になるかも、とは思う。

 

だからこそ、フランクルがどう考え行動したのかが、今広く知られるべきではないか、と。