名著「源氏物語」は貴族社会の単なる恋愛小説ではない、ということに気づいたのは、女の厄年を過ぎてからだった。
全巻通して読破出来たのが、その頃であった。
そもそも私は古文なんて大嫌いだったし、現役高校生の頃の古文漢文の授業はバイトで疲労した体を休める睡眠タイムでしかなかったよーな記憶。。。
(あの頃、学費と独立資金を稼ぐのに必死のパッチであった。)
だいたい古文の世界は天皇とか皇后とか...その他諸々、人間関係が複雑でややこしく、歴史性みたいなものも背景にあって、因習臭い。
反抗期の頃は、そういうのがジメジメして一番うっとうしく感じられるものだから。
それに、その頃には、まだ良い参考書も無かったな。
まだまだ国文学の学者の世界も古かったのだろう。
私の学生時代、その種の本など、本屋でチラと立ち読みしても...
「説得力薄っ。」と思える内容だったり、ジェンダーバイアスもかかりまくりであったりして、ちーっとも面白いと感じたことがなかった。
おそらくは、学園紛争の時代に学生運動ではなく研究の方面で、戦中の悪影響を受けた学問のあり方に疑問を持ちつつ、学問・研究の自由を実践していた人たちが、遠慮なくご自身の研究の成果として書籍を出せるようになった頃から、徐々に変わり始めたのだと思う。
文系の他の分野でも似たような現象が見受けられる。
学生運動なんて無かった自分の大学時代でも、まだ『研究の自由が制約されるって、戦時中か!』とツッコミ入れたくなることって、あったから。
同じ敗戦国の中でも、「戦後」という単語が、何かと頻繁に使われるのは日本だけ...
そんな事を、90年代の討論番組で誰かが言っていたのを思い出す。
あの時代、戦中の亡霊が、まだまだあちこちで這いずり回っていたのではあるまいか。
(ほんとのお化け的なものじゃなく、考え方とか風習とか etc...)
体育会系クラブのあのしごきも、軍隊のあり方から来てたんじゃ?
おっとろしや〜。
おっと、かなり脱線してしまった。話しを戻そう!
紫式部が伝えたかったことの一つ...
それは...
究極的に、人間は如何なる他者ととも居ようが孤独であるが、その孤独を如何に過ごすのか、ということ。
健康であろうが病気であろうが、若かろうが既に老いていようが、金持ちであろうが貧しかろうが、時間は過ぎてゆくが、その時間を如何に過ごすのか。
「源氏物語」に出てくる登場人物に、赤鼻のトナカイ、ならぬ、赤鼻の末摘花がいるが...
ろくに上手く歌も詠めず、貧乏で...
ブスでのろまで不器用で、使用人にまで馬鹿にされる始末。
考え無しの阿呆に見えて、だが、全くそういうわけでもない...
一般に流布する華やかな貴族社会のイメージからは、かなり遠いこの登場人物に、紫式部はメッセージを込めていて...
それは、和歌や物語などの国文学の世界だけではない世界を知っていた彼女ならではの、深い洞察力から来るもの。
そこに、紫式部の「天才性」を見るのである。
こんな人は、二度と世に出ないのではないか、とさえ思う。
それにしても、紫式部の時代の女房たち、年齢に比して精神的に大人。
大人というか...
二十代で既に老女のような所がある。
そう言えば、M デュラスの「ラマン」に出てくるあの有名なフレーズを思い出す。
「十八でわたしは年老いた」
この年になっても、いまだに『あれは、どういう意味だったのだろう?』と、真面目に考えさせられることがある。
ああだろうか?こうだろうか?と。
その「年老いた」 ---" j'ai vieilli."--- という意味合いを。