敵味方の向こう側

赤染衛門

元輔が昔住みける家のかた原に、清少納言住し頃、雪のつみしく降りて、隔ての垣もなく倒れて見わたされしに

 

跡もなく雪ふるさとの荒れたるをいづれ昔の垣根とか見る

 

上記は、清少納言を訪ねて行った際の赤染衛門の歌。

当時の政争で、負け組の中関白家側に属していた清少納言

勝ち組に属していた赤染衛門和泉式部の歌集に、なぜか清少納言との付き合いをうかがわせる歌が残されている。

いわば政敵であって、しかも負け側の清少納言とのつながりを敢えて書き記すとは。

普通ならスルーして終わるところだろうに。

 

そこで思うのは、清少納言という人は結構人気があったのではないか、と。

書き残されているものを読むとユーモアがあって『この人が上司であっても部下であっても同僚であっても、付き合うと楽しげ』な人に思える。

少なくとも、赤染衛門和泉式部清少納言のいずれの歌集にも見えない紫式部よりかは。

紫式部三者について記述しているにもかかわらず、三者はスルー。。。

学識に溢れた知性ある人だが、ちょっと陰気で理屈っぽい性格がそうさせるのかしら?

 

紫式部清少納言批判には、同じ天皇の妻である人につかえる女房としてどうなのか、というのがあったのではと推測する。

上手に中宮・皇后教育するのも女房としてのつとめだろうに、と、仕える人は違えど同じ女房職につく者として清少納言を責めたい気持ちもあったのでは、と、定子の晩年を見ると、個人的には感じてしまうのだ。

それにしても、辛辣ではあるけど。そこまで書き残す必要性は何なのかと。

後に他人に読まれる可能性大なことも承知の上で。

 

そして、なんとなくだが...

今日にまで続くいわゆる京女のイメージ像---腹の底で何考えてるか分からんイケずな女像---は、紫式部から来ているような気も。。。

おっと言い過ぎました。スンマセン、紫式部様〜。

『こういう人を師匠と仰ぎたい!』と、尊敬申し上げておりまするが。。。)

 

 

さて、その訪問してくれた赤染衛門への歌ではないかと推測されるものが清少納言集にある。

 

清少納言

年老いて、人にも知られで籠り居たるを、尋ね出でたれば

 

訪ふ人にありとはえこそ言ひ出でねわれやはわれと驚かれつつ

 

 

晩年、かなり生活が苦しかったらしい逸話が残される清少納言だが...

さて本当のところ、真偽は分からない。

歴史は勝者によって作られるもの故。